
「この場所に、かつて城があったなんて——。」
そう思わずにはいられませんでした。
長岡駅前の近代的な景色を見ながら、ここがかつて長岡城の本丸だったことを想像するのは、なかなか難しいものです。今ではアオーレ長岡の広場に立つ石碑が、唯一、この地が城址であることを示しています。
そして、長岡城を語る上で欠かせないのが、「米百俵」の逸話です。戊辰戦争に敗れ、困窮した長岡藩。そんな彼らに贈られた百俵の米をめぐる物語は、現代にも通じる「未来への投資」というテーマを含んでいます。
今回は、長岡城址を巡りながら、この歴史的エピソードに思いを馳せてみたいと思います。

長岡城とは?天守を持たない城の秘密
長岡城は、他の有名な城と違い、天守を持たない構造をしていました。城といえば立派な天守閣を思い浮かべるかもしれませんが、長岡城は悌郭(ていかく)式の城郭で、石垣よりも土塁が中心の防御構造を持っていました。
長岡城の築城と波乱の歴史
長岡城の築城が始まったのは慶長10年(1605年)。この頃、関ヶ原の戦いはすでに終わっており、戦国の世も落ち着きを見せ始めた時期でした。ところが、この築城計画は途中で頓挫します。

原因は何だったのか?
築城を進めていた人物が長野県へ移封され、代わりに松平忠輝の家臣である山田隼人正勝重が城主になったことで、工事が中止されたのです。
個人的な感想ですが、「関ヶ原も終わったのに、なぜ新たに城を作るのか?」と幕府側から疑われたのかもしれません。結局、長岡城が正式に完成するのは1618年(元和4年)、大坂夏の陣が終結した3年後のことでした。
度重なる戦火と長岡城の消失
江戸時代には堅固な城として存在していた長岡城ですが、明治維新後に迎えた戊辰戦争で、新政府軍との戦闘に巻き込まれ、城の大部分が焼失。さらに明治期には行政の変化とともに城跡は整理され、今ではその面影を残していません。
現在の長岡駅が長岡城の本丸跡であり、二の丸跡にはアオーレ長岡が建てられています。つまり、長岡の中心地そのものがかつての城だったのです。
「米百俵」の逸話とは? 長岡藩が見せた未来への投資
戊辰戦争後の長岡藩—困窮と復興
1868年、戊辰戦争で旧幕府側についた長岡藩は、新政府軍との戦いに敗れました。その結果、藩は減封され、財政は壊滅状態。藩士たちは生活に困窮し、日々の食料すらままならない状況に陥ります。
そんな時、長岡藩に**支藩の三根山藩(現在の新潟市西浦区)**から「百俵の米」が送られました。これは救済のための贈り物であり、当然のように藩士たちは「この米を分けてほしい」と要求します。
しかし、この申し出に対し、長岡藩の教育者である小林虎三郎は「米を食べてしまえば、それで終わり。しかし、教育に投資すれば、未来の長岡を救うことができる」と主張しました。
百俵の米が学校の設立資金に!
虎三郎は、この百俵の米を売却し、その資金を元に国漢学校(長岡の藩校)を設立。これにより、多くの若者が教育を受ける機会を得たのです。
この逸話は「目先の利益ではなく、未来への投資こそが重要である」という教訓を私たちに残してくれています。
長岡城址を訪れて感じたこと
実際に長岡城址を歩いてみると、歴史の痕跡はほとんど見当たりません。しかし、城の跡地に立つと、「かつてここに城があった」という事実が、ただの歴史の話ではなく、長岡の人々が歩んできた道のりそのものだと感じられます。
長岡藩が戊辰戦争で敗れ、財政難に陥りながらも、「米百俵」をきっかけに未来への投資を決断したように、現代の私たちも、目の前の利益ではなく、長期的な視点で物事を考える必要があるのではないでしょうか。
また、長岡の中心部には、長岡城址の名残はないものの、「米百俵の精神」は今も息づいています。長岡駅周辺を歩いてみると、歴史を語る碑や資料館が点在しており、地域の人々がこの物語を大切にしていることが伝わってきます。
まとめ:長岡城址は「歴史が消えた場所」ではない
長岡城は、今では跡形もなくなっていますが、その歴史や逸話は、長岡の人々の中で生き続けています。
• 長岡城は、天守を持たない独特の城だった
• 度重なる戦火で焼失し、今では駅や公共施設となっている
• 「米百俵」の逸話は、未来への投資の大切さを教えてくれる
長岡を訪れた際には、ぜひこの歴史を思い出しながら、街を歩いてみてください。きっと、新しい視点でこの街の魅力を感じることができるはずです。
参考文献
花ヶ前盛明 著 『越後史跡紀行ー歴史と人物ー』 新潟日報事業社 2018年
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